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京都地方裁判所 昭和33年(ワ)1086号 判決

原告 山木銀治

被告 国

訴訟代理人 藤井俊彦 外三名

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一、双方の申立

原告訴訟代理人は「被告は原告に対し、金三、二二〇、〇〇〇円を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決並びに仮執行の宣言を求め、被告訴訟代理人らは主文同旨の判決を求めた。

第二、原告の請求原因

一、(1)  原告は昭和三一年七月七日訴外野々宮軍平の代理人と称する訴外野々宮清美より金員貸与の依頼を受け、訴外野々宮軍平が借主となり訴外野々宮清美が連帯保証人となりかつ野々宮軍平所有の農地を譲渡担保の目的とするとのことであつたので、右消費貸借につき後日公正証書を作成するとの諒解のもとに、即日金三〇〇、〇〇〇円を訴外野々宮清美に交付し、次で同月九日右野々宮清美と共に徳島市新橋二丁目一二番地所在の公証人役場に出頭し徳島地方法務局所属公証人堤房治に右譲渡担保附金銭消費貸借契約公正証書の作成を嘱託し、右公証人堤房治は訴外野々宮清美提出の野々宮軍平の委任状及び印鑑証明書により野々宮清美が野々宮軍平の代理人であると認めて右公正証書(昭和三一年第二、〇四〇号)を作成した。しかしながら訴外野々宮軍平は訴外野々宮清美に右公正証書の作成を嘱託する代理権を授与したこともなく、そもそも右消費貸借をする代理権限を与えたこともなかつたこと、従つて野々宮清美が右公正証書作成嘱託に当り使用した野々宮軍平の委任状及び印鑑証明書は偽造されたものであることが後になつて発覚したので、原告と野々宮軍平との間の右消費貸借及び譲渡担保契約は成立しておらず、原告としては野々宮清美の詐欺行為により右金三〇〇、〇〇〇円を詐取されたことになる。しかも野々宮清美は無資力であるため右不法行為によつて原告の蒙つた損害を賠償することは事実上不可能である。ところで、原告は右委任状及び印鑑証明書が偽造のものとわかれば、当然に右消費貸借契約等を締結しなかつたものであるから右損害は公証人堤房治が原告及び野々宮清美から嘱託を受けて右公正証書を作成するに当り、野々宮清美提出の野々宮軍平の委任状及び印鑑証明書が偽造のものであり真正のものでないことを看過しなかつたならば容易に防止し得たものである。即ち右公正証書作成の嘱託の際原告が公証人堤房治に提出した原告の印鑑証明書(真正のもの)と野々宮清美が公証人堤房治に提出した野々宮軍平の印鑑証明書(真正でないもの)とを比較すれば、両者の発行名義人たる富岡町長として前者は「澤田紋」となつており後者は「沢田紋」となつており、かつ前者の印鑑証明書には右肩部分に割印が施してある上発行町長印は「澤田紋」となつているのに後者の印鑑証明書にはかゝる割印が施してない上(而して同町長は発行したことを後日検証できない)発行町長印は「澤田紋」となつていることが明瞭であるから、公証人堤房治としては右両個の印鑑証明書の右のような相違に容易に気づくべきにかゝわらず漫然これを看過し、代理人の嘱託による公正証書の作成に当り職務上要求せられる代理人の代理権限の有無につき確認すべき注意義務を怠り、野々宮軍平の委任状と印鑑証明書とが真正のものでないことを看過し、野々宮清美の言を軽信して同人が野々宮軍平の代理人であるとして右公正証書を作成した過失があり、原告は公証人堤房治の右過失により右金三〇〇、〇〇〇円の損害を蒙つたものということができる。

(2)  原告は同年八月一日右野々宮清美より金員貸与の依頼を受け、野々宮清美が借主となり野々宮軍平が連帯保証人となりかつ連帯保証人野々宮軍平所有の山林を譲渡担保の目的とするとのことであつたので、右消費貸借につき後日公正証書を作成するとの諒解のもとに、即日金三〇〇、〇〇〇円を野々宮清美に交付し、次で同月二日野々宮清美と共に前記公証人役場に出頭し、公証人堤房治に譲渡担保附金銭消費貸借契約公正証書の作成を嘱託し、右公証人堤房治は野々宮清美提出の野々宮軍平の委任状及び印鑑証明書により野々宮清美が野々宮軍平の代理人であると認めて右公正証書(昭和三一年第二、三二五号)を作成した。しかしながら野々宮軍平は野々宮清美に右公正証書の作成を嘱託する代理権を授与したこともなくそもそも野々宮清美のなす右消費貸借につき債務者野々宮清美の連帯保証人となり或は自己所有の山林を譲渡担保の目的とすることを承諾したこともなかつたこと、従つて野々宮清美が右公正証書作成嘱託に当り使用した野々宮軍平の委任状及び印鑑証明書は偽造されたものであることが後になつて発覚したので、原告と野々宮軍平との間の右連帯保証契約並に物上保証契約は成立しておらず、原告としては右野々宮軍平が連帯保証人となりかつ同人所有の山林を譲渡担保の目的とするとの野々宮清美の言を信じ無資力者である野々宮清美との間に右消費貸借契約を締結した次第であつてその要素に錯誤があり同人との右消費貸借契約は無効のものというべく、従つて原告は野々宮清美から右交付した金三〇〇、〇〇〇円を不当利得として返還を受けることになるが、野々宮清美は前記のとおり無資力であるため同人に対する原告の右不当利得返還請求は事実上不可能である。ところで、原告は右委任状及び印鑑証明書が偽造のものとわかれば、当然に右消費貸借契約等を締結しなかつたものであるから、かかる損害は、公証人堤房治が原告及び野々宮清美から嘱託を受けて右公正証書を作成するに当り、野々宮清美提出の野々宮軍平の委任状及び印鑑証明書が偽造のものであり真正のものでないことを看過しなかつたならば容易に防止し得たものである。即ち右公正証書作成の嘱託の際野々宮清美が公証人堤房治に提出した野々宮軍平の印鑑証明書には、右肩部分に割印が施されておらず発行名義人たる富岡町長として「澤田紋」ではなく「沢田紋」となつている上町長印は「澤田紋」ではなく「澤田紋」となつているのであつて同町長発行にかゝる真正の印鑑証明書でないことが明瞭であるから、公証人堤房治としては右印鑑証明書が真正のものでないことに気づくべきにかゝわらず漫然これを看過し、代理人の嘱託による公正証書の作成に当り職務上要求せられる代理人の代理権限の有無につき確認すべき注意義務を怠り、野々宮清美の言を軽信して同人が野々宮軍平の代理人であるとして右公正証書を作成した過失があり、原告は公証人堤房治の右過失により右金三〇〇、〇〇〇円の損害を蒙つたものということができる。

(3)  原告は同年八月二八日右野々宮清美より金員貸与の依頼を受け、野々宮清美が借主となり野々宮軍平が連帯保証人となりかつ連帯保証人野々宮軍平所有の農地を譲渡担保の目的とするとのことであつたので、右消費貸借につき公正証書を作成するとの諒解のもとに、即日金五〇〇、〇〇〇円を野々宮清美に交付し、同日野々宮清美と共に前記公証人役場に出頭し公証人堤房治に譲渡担保附金銭消費貸借契約公正証書の作成を嘱託し、右公証人堤房治は野々宮清美提出の野々宮軍平の委任状及び印鑑証明書により野々宮清美が野々宮軍平の代理人であると認めて右公正証書(昭和三一年第二、六四一号)を作成した。しかしながら野々宮軍平は野々宮清美に右公正証書の作成を嘱託する代理権を授与したこともなく、そもそも野々宮清美のなす右消費貸借につき債務者野々宮清美の連帯保証人となり或は自己所有の農地を譲渡担保の目的とすることを承諾したこともなかつたこと、従つて野々宮清美が右公正証書作成嘱託に当り使用した野々宮軍平の委任状及び印鑑証明書は偽造されたものであることが後になつて発覚したので、原告と野々宮軍平との間の右連帯保証契約並に物上保証契約は成立しておらず、原告としては右野々宮軍平が連帯保証人となりかつ同人所有の農地を譲渡担保の目的とするとの野々宮清美の言を信じ無資力者である野々宮清美との間に右消費貸借契約を締結した次第であつてその要素に錯誤があり同人との右消費貸借契約は無効のものというべく、従つて原告は野々宮清美から右交付した金五〇〇、〇〇〇円を不当利得として返還を受けることになるが、野々宮清美は前記のとおり無資力であるため同人に対する原告の右不当利得返還請求は事実上不可能である。ところで、原告は右委任状及び印鑑証明書が偽造のものとわかれば、当然に右消費貸借契約等を締結しなかつたものであるから、右損害は、公証人堤房治が原告及び野々宮清美から嘱託を受けて右公正証書を作成するに当り、野々宮清美提出の野々宮軍平の委任状及び印鑑証明書が偽造のものであり真正のものでないことを看過しなかつたならば容易に防止し得たものである。即ち右公正証書作成の嘱託の際野々宮清美が公証人堤房治に提出した野々宮軍平の印鑑証明書には、右肩部分に割印が施されておらず、発行名義人たる富岡町長として「澤田紋」ではなく「沢田紋」となつている上町長印は「澤田紋」ではなく「澤田紋」となつているのであつて同町長発行にかゝる真正の印鑑証明書でないことが明瞭であるから、公証人堤房治としては右印鑑証明書が真正のものでないことに気づくべきにかゝわらず漫然これを看過し、代理人の嘱託による公正証書の作成に当り職務上要求せられる代理人の代理権限の有無につき確認すべき注意義務を怠り、野々宮清美の言を軽信して同人が野々宮軍平の代理人であるとして右公正証書を作成した過失があり、原告は公証人堤房治の右過失により右金五〇〇、〇〇〇円の損害を蒙つたものということができる。

(4)  原告は同年一〇月八日訴外野々宮軍平の代理人と称する右野々宮清美より金員貸与の依頼を受け、右野々宮軍平が借主となり野々宮清美が連帯保証人となりかつ野々宮軍平所有の農地を譲渡担保の目的とするとのことであつたので、右消費貸借につき公正証書を作成するとの諒解のもとに、即日金四〇〇、〇〇〇円を野々宮清美に交付し、同日野々宮清美と共に前記公証人役場に出頭し公証人堤房治に右譲渡担保附金銭消費貸借契約公正証書の作成を嘱託し、右公証人堤房治は野々宮清美提出の野々宮軍平の委任状及び印鑑証明書により野々宮清美が野々宮軍平の代理人であると認めて右公正証書(昭和三一年第三、三一三号)を作成した。しかしながら野々宮軍平は野々宮清美に右公正証書の作成を嘱託する代理権を授与したこともなく、そもそも右消費貸借をする代理権限を与えたこともなかつたこと、従つて野々宮清美が右公正証書作成嘱託に当り使用した野々宮軍平の委任状及び印鑑証明書は偽造されたものであることが後になつて発覚したので、原告と野々宮軍平との間の右消費貸借並びに譲渡担保契約は成立しておらず、原告としては野々宮清美の詐欺行為により右金四〇〇、〇〇〇円を詐取されたことになる。しかも野々宮清美は無資力であるため右不法行為によつて原告の蒙つた損害を賠償することは事実上不可能である。ところで、原告は右委任状及び印鑑証明書が偽造のものとわかれば、右消費貸借契約等を締結しなかつたものであるから、右損害は、公証人堤房治が原告及び野々宮清美から嘱託を受けて右公正証書を作成するに当り、野々宮清美提出の野々宮軍平の委任状及び印鑑証明書が偽造のものであり真正のものでないことを看過しなかつたならば容易に防止し得たものである。即ち右公正証書作成の嘱託の際野々宮清美が公証人堤房治に提出した野々宮軍平の印鑑証明書には、右肩部分に割印が施されておらず、発行名義人たる富岡町長澤田紋の印影は「澤田紋」ではなく「澤田紋之印」となつているのであつて富岡町長発行にかゝる真正の印鑑証明書でないことが明瞭であるから、公証人堤房治としては右印鑑証明書が真正のものでないことに気づくべきにかゝわらず漫然これを看過し、代理人の嘱託による公正証書の作成に当り職務上要求せられる代理人の代理権限の有無につき確認すべき注意義務を怠り、野々宮清美の言を軽信して同人が野々宮軍平の代理人であるとして右公正証書を作成した過失があり、原告は公証人堤房治の右過失により右金四〇〇、〇〇〇円の損害を蒙つたものということができる。

(5)  原告は同年一〇月一二日訴外小島正と称する者より金三二〇、〇〇〇円貸与の依頼を受け、右小島正が借主となり訴外大栃高夫及び訴外野々宮清美が連帯保証人となりかつ小島正所有の農地を譲渡担保の目的とするとのことであつたので、これを承諾し、同日右小島正及び野々宮清美と共に前記公証人役場に出頭し公証人堤房治に譲渡担保附金銭消費貸借契約公正証書の作成を嘱託し、右公証人堤房治は右小島正提出の印鑑証明書により小島正と称して出頭した者が小島正本人であつて人違いでないと認め、かつ右小島正と称して出頭した者の提出にかゝる大栃高夫の委任状及び印鑑証明書により右小島正が大栃高夫の代理人であると認めて右公正証書(昭和三一年第三、四〇八号)を作成した。而して原告はその際金三二〇、〇〇〇円を右小島正と称する者に交付した。しかしながら小島正と称して右公証人役場に出頭した者は訴外島田正であり、大栃高夫は当時死亡していたこと、従つて小島正と称した島田正が右公正証書作成嘱託に当り使用した小島正の印鑑証明書及び大栃高夫の委任状、印鑑証明書はいずれも偽造されたものであることが後になつて発覚したので、右公正証書に表示せられているような原告と小島正との間の右消費貸借及び譲渡担保契約は成立しておらず、原告としては島田正及び野々宮清美の詐欺行為により右金三二〇、〇〇〇円を詐取されたことになる。しかも島田正及び野々宮清美はともに無資力であるため右不法行為によつて原告の蒙つた損害を賠償することは事実上不可能である。ところで、原告は右委任状及び印鑑証明書が偽造のものとわかれば、当然に右契約を締結しなかつたものであるから、右損害は、公証人堤房治が原告及び小島正と称する者並に野々宮清美から嘱託を受けて右公正証書を作成するに当り、小島正と称する者の提出にかゝる小島正の印鑑証明書及び大栃高夫の委任状、印鑑証明書が偽造のものであり真正のものでないことを看過しなかつたならば容易に防止し得たものである。即ち右公正証書作成の嘱託の際小島正と称する島田正が公証人堤房治に提出した小島正及び大栃高夫の各印鑑証明書には、各右肩部分に割印が施されておらず、発行名義人たる富岡町長澤田紋の印影は「澤田紋」ではなく「澤田紋之印」となつているのであつて富岡町長発行にかゝる真正の印鑑証明書でないことが明瞭であるから、公証人堤房治としては右各印鑑証明書が真正のものでないことに気づくべきにかゝわらず漫然これを看過し、公正証書の作成に当り職務上要求せられる嘱託人の人違いでないかどうか又それが代理人の嘱託による場合ならば右代理人に代理権限があるかどうかを確認すべき注意義務を怠り、小島正と称する島田正の言を軽信して同人が小島正でありかつ大栃高夫の代理人であるとして右公正証書を作成した過失があり、原告は公証人堤房治の右過失により右金三二〇、〇〇〇円の損害を蒙つたものということができる。

(6)  原告は昭和三二年一〇月一日訴外湯浅善喜と称する者より金二、〇〇〇、〇〇〇円貸与の依頼を受け、右湯浅善喜が借主となり同人所有の杉、檜素材一三、〇〇〇石を譲渡担保の目的とするとのことであつたので、これを承諾し、同日右湯浅善喜と共に前記公証人役場に出頭し公証人堤房治に譲渡担保附金銭消費貸借契約公正証書の作成を嘱託し、右公証人堤房治は右湯浅善喜提出の印鑑証明書により湯浅善喜と称して出頭した者が湯浅善喜本人であつて人違いでないと認めて右公正証書(昭和三二年第四、五三二号)を作成した。而して原告はその際金二、〇〇〇、〇〇〇円を右湯浅善喜と称する者に交付した。しかしながら湯浅善喜と称して右公証人役場に出頭した者は湯浅善喜本人ではなく氏名不詳の某であつたこと、従つて湯浅善喜と称する氏名不詳の某が右公正証書作成嘱託に当り使用した湯浅善喜の印鑑証明書は偽造されたものであることが後になつて発覚したので、右公正証書に表示せられているような原告と湯浅善喜との間の右消費貸借及び譲渡担保契約は成立しておらず、原告としては湯浅善喜と称する氏名不詳の某の詐欺行為により右金二、〇〇〇、〇〇〇円を詐取されたことになる。その後原告は右湯浅善喜と称する氏名不詳の者や同人の右詐欺行為を共謀した訴外上杉某、同松島某より金六〇〇、〇〇〇円の支払を受けたが、残額一、四〇〇、〇〇〇円に及ぶ原告の蒙つた損害については同人等はともに無資力であるためこれを賠償することは事実上不可能である。ところで、原告は、右委任状が偽造のものとわかれば、当然に右消費貸借契約等を締結しなかつたものであるから、右損害は、公証人堤房治が原告及び湯浅善喜と称する者から嘱託を受けて右公正証書を作成するに当り、湯浅善喜と称する者の提出にかゝる湯浅善喜の印鑑証明書が偽造のものであり真正のものでないことを看過しなかつたならば容易に防止し得たものである。即ち右公正証書作成の嘱託の際湯浅善喜と称する氏名不詳の某が公証人堤房治に提出した湯浅善喜の印鑑証明書には、所要箇所に割印が施されてないことが明瞭であるから、公証人堤房治としては右印鑑証明書が真正のものでないことに気づくべきにかゝわらず、漫然これを看過し、公正証書の作成に当り職務上要求せられる嘱託人の人違いでないかどうかを確認すべき注意義務を怠り、湯浅善喜と称する氏名不詳の某の言を軽信して同人が湯浅善喜本人であるとして右公正証書を作成した過失があり、原告は公証人堤房治の右過失により右金一、四〇〇、〇〇〇円の損害を蒙つたものということができる。

二、右の如く、国の公権力の行使に当る公務員たる公証人堤房治は、その職務である前記(1) ないし(6) の公正証書の作成にあたつて、その嘱託人の同一性及び代理嘱託人の権限を証すべき証書の真正を確認するにあたり、前記の如き理由により、前記各印鑑証明書及び各委任状が偽造であることを発見すべきであるのみならず、仮にこの発見ができないとしても、かかる印鑑証明書だけでなく他の確実なる方法をも援用して確認する術をほどこすべきであつた。蓋し、当時、右富岡町において、その発行する印鑑証明書に割印を要する旨規定した条例が存し、また、前記各態様の如き印鑑証明書が同町において現実に発行され、有効なるものとして適用していたのなら、一層これらについて偽造の可能性が増大することから、同公証人が仮にこれらを知悉していたとすれば、単にかかる印鑑証明書のみによつて前記確認をなすときには、重大なる注意義務を必要とされるというべきであるからである。而して、同公証人はこれらを怠つた過失によつて違法に原告に対し、前記(1) ないし(6) の合計金三、二二〇、〇〇〇円の損害を加えたのである。

三、仮に、被告の主張する様に前記(1) ないし(4) の公正証書の作成と損害の発生について、因果関係がないとしても、右公証人が(1) の公正証書を作成していなければ前記(2) ないし(4) の損害は発生していない筈であるから、同(1) の公正証書の作成と(2) ないし(4) の損害との間には因果関係があることになる。

四、仮に、前記各主張が理由なく、前記(1) ないし(6) の公正証書が各その貸金の支払を確保する目的のもとに、将来の紛争を避けるための証拠並びに債務名義としての執行力を保持するために作成されたものだとしても、前記の偽造印鑑証明書の各被証明者に対する関係では、右各公正証書は効力を有しないから、原告は右目的を達することが出来ず、しかも前記の如く、他に貸金回収の途を有しないから、結局、原告は同公証人の前記過失により、前記三、二二〇、〇〇〇円の損害を蒙つていることになる。よつて、被告に対しその賠償を求める。

第三、請求原因に対する被告の答弁

一、請求原因事実のうち、徳島地方法務局所属公証人堤房治が、その役場において、原告主張の(1) ないし(6) の公正証書を、その主張の者の嘱託により、その主張の如き形式内容の委任状及び印鑑証明書によつて作成したこと、この委任状及び印鑑証明書のうち、原告が偽造と主張するものはいずれもその主張のように偽造されたものであることを認める。同公証人には右各公正証書の作成にあたり、原告主張の如き注意義務の要求されること及び注意義務の懈怠があつたことを否認する。その余の事実を知らない。

二、公証人堤房治は、原告主張の(1) ないし(6) の公正証書の作成にあたり、公証人としてとるべき注意義務を慎重につくし、忠実に職務を遂行したのであつて、同人が職務上つくすべき注意義務を懈怠したことは全くない。蓋し、原告が真正なる印鑑証明書と偽造のそれとの相違点として主張することは、後述の如く、それ自体右の真偽判別の基準となり得ないばかりでなく(後記(1) ないし(3) )、かえつて、本件の偽造印鑑証明書に関しては、これを真正なるものと信ずべき事情さえも存在したからである(後記(4) 及び(5) )。

(1)  割印について

もともと我国の法制において、印鑑証明書の発行にあたり、これに割印を要求する法令上の根拠があるわけではない。そのため印鑑証明書の様式は各市町村の条例などによつて区々たる扱いがなされ、割印を押捺することゝしている市町村もあれば、そうしていないところもあるのが実状である。

現に、本件の各印鑑証明書の作成日付の昭和三一年をとつてみると、公証人堤房治が同年三月中に受理した総数七九八通の印鑑証明書のうち、割印のあるものは四四二通で、その余の三五六通には割印がないのである。

そのうえ、当時、条例によつて割印を押捺するように定められていた前記富岡町のものでさえ、その扱いは必ずしも完全に統一されていたわけでなく、同公証人が同年一月一日から同年一二月末までに受理した同町長名義の総数一、一二六通の印鑑証明書のうち、割印のないものが八八通もあるのである。

従つて、印鑑証明書に割印がないからといつて、直ちにそれが偽造であるといえないのである。

(2)  「澤」と「沢」の文字について、

原告主張の(1) ないし(3) の公正証書が作成された当時、前記富岡町役場またはその支所においては、この「澤」を印刷したものと「沢」を印刷したものとの双方の印鑑証明書用紙が使用されていたのであるから、「沢」の文字が使用されているからというて、その印鑑証明書が偽造のものであるといえないのである。

現に、公証人堤房治が昭和三一年一月一日から同年一二月末日までに受理した同町長名義の印鑑証明書総数一、一二六通のうち、「澤」を使用したものは五四八通、「沢」を使用したものは五七八通という具合である。

(3)  「紋」と「紋」の印影について、

原告主張の(1) ないし(5) の公正証書が作成された頃、右役場またはその支所においては、「紋」と刻した印章と「紋」と刻した印章の双方を使用していたのであるから、「紋」の印影のある印鑑証明書といえども、これが偽造されたものであるといえないのである。

現に、前記一、一二六通の印鑑証明書のうち、「紋」の印影のあるものは七六八通、「紋」の印影のあるものは三五七通もあるのである。

(4)  用紙について

原告主張の(1) ないし(5) の富岡町長名義の各偽造印鑑証明書の用紙は、いづれも野々宮清美が前記役場または同役場宝田支所において、それぞれの発行日付の当日もしくは二、三日前に交付をうけたものであり、同(6) の海南町長名義の偽造印鑑証明書の用紙は上杉美国が海南町役場において昭和三二年九月二九日に交付をうけたものであつて、いづれも真正なる印鑑証明書と同一の紙質、活字、文言形状のものである。

(5)  公印の型式について

本件偽造の各印鑑証明書に押捺されている公印は、真正なる公印と型式を同じくする六分角のものであるから、この形状からみるとき、この印影は偽造された印章によるものであると判断することは困難である。

よつて、原告主張の各偽造印鑑証明書の提出があつてもこれらの形・態様から、直ちに同公証人にこれらの印鑑証明書の真偽を確認すべき義務が生ずるものといえないのである。

三、仮に同公証人に、原告主張の如き過失があるとしても、原告主張の(1) ないし(4) の公正証書の作成と、これらの作成による原告主張の損害の発生との間には、原告の主張からみて因果関係がないというべく、而して、右(1) ないし(4) に関する原告の主張は、それ自体理由がない。蓋し、原告の主張によれば、右(1) ないし(4) の損害の発生は、いづれも各金員の交付時に発生したものと解されるのであるが、その主張する公証人の過失ある行為は、すべてこの金員交付後に、すなわち損害の発生後になされたというのであるから、これを右各損害の各発生原因となし得ないことは明かであるからである。

第四、証拠〈省略〉

理由

一、徳島地方法務局所属公証人堤房治が、その役場において、原告主張の(1) ないし(6) のとおり、その主張する嘱託人ないし代理嘱託人の嘱託により、その主張の如き文言形式の偽造の委任状並びに印鑑証明書によつて、その主張の如き内容の公正証書六通を作成したことは当事者間に争がない。そして、公証人は公証人法第一条所掲の職務権限たる公正証書の作成、その他のいわゆる「公証作用」を担当することによつて、国の機関としてその公権力を行使する公務員に該当するものというべきである。

二、そこで、まず同公証人が右の各公正証書を作成するにあたり、右の嘱託人ないしは代理嘱託人の同一性及び代理権限を証すべき証書の真正を確認するためにとつた方法に、過失があつたかどうか判断する。

そもそも公証人が公正証書を作成するにあたり、その嘱託人ないし代理嘱託人の同一性及び代理嘱託人の代理権限を証すべき証書の真正なることを確認するためにとるべき方法は、官公署の作成したる印鑑証明書の提出のあるときには、これをもつて足りることは、公証人法第二八条・第三一条・第三二条の明定するところである。そうして右にいう印鑑証明書が真正に成立した印鑑証明書でなければならないことは、いうをまたないところである。したがつて公証人には、提出された印鑑証明書の成立の真否を認定する義務があるものと解すべきであるけれども、右義務の内容が如何なるものであるかについては、更に審究する必要がある。右法条において所定の印鑑証明書の提出が要求されるのは本人(法二八条二項)又は代理人(法三一条)の人違でないことを確認する方法としてこれを最良の方法としたものであり、また代理人の権限を証すべき委任状が私署証書である場合(法三二条)その真正なることを証明する方法として最良の方法としたものに外ならぬ。そして印鑑証明書は公文書であることは異論のないところであり、その印鑑証明書の真偽の調査について公証人がのぞむべき態度は裁判所が民事訴訟において成立に争のある公文書の真偽の調査についてのぞむべき態度と同一とみてよい。すなわち民事訴訟法第三二三条によれば、その第一項において、文書は外観上公文書と認められれば真正な公文書と推定せられるのであり、但しその第二項において、外観上公文書と認められる文書であつても、その「真否ニ付疑アルトキハ……職権ヲ以テ当該官庁又ハ公署ニ問合ヲ為スコトヲ得」とせられているのである。そうして右にいう「真否ニ付疑アル」とは通常人の注意力をもつて観察した場合に偽造の疑いある場合を指すのであり、「得」とは、しかすべき義務あることの表現にほかならない。そして、公証人が印鑑証明書の審理をするについて要求される注意義務は、この範囲に限られるものである。

ところで、本件においては、

(1)  成立に争のない甲第一号証の三、偽造の印鑑証明書であることに争のない甲第一号証の五・同第二号証の三・同第三号証の三・同第四号証の三・同第五号証の二・同号証の三の各記載内容、形式用紙、使用文字によると、原告主張の偽造の各印鑑証明書はすべて前記富岡町の発行する真正なる印鑑証明書と同一紙質(用紙)で、しかも、その書式体裁、印刷された不動文字の大きさ並びに字体及び押捺されている同町長印の大きさが同一であるから、右偽造の印鑑証明書自体から直ちにこれらが偽造であるという疑を抱くことは困難である。

そこで、成立に争のない甲第二号証の一・同第三号証の一・同第四号証の一によると、原告主張の(2) ないし(4) の公正証書の作成にあたつては、野々宮軍平の右の如き形・態様の印鑑証明書のみが、各一週宛提出されたのであり、同(5) の公正証書の作成にあたつては、被証明者のみが異るだけで他は同一の右の如き形・態様の印鑑証明書が二通同時に提出されたのであるから、これら(2) ないし(5) の公正証書の作成にあたり、同公証人には印鑑証明書の審理につき、過失があつたということはできない。もつとも、同(5) の公正証書作成のときに提出された二通の印鑑証明書の町長の印影には「之印」という文字があり、証人野々宮清美の証言によれば、これらに押捺された印鑑は同証人が偽造したものであること、かかる文字を刻んだ町長印は証人中西一二三の証言によると、当時、同町で印鑑の認証事務を取扱つていた同町戸籍課関係に存在しなかつたことが各認められるが、これとても、前記無過失の認定をくつがえすものではない。

(2)  しかし、原告主張の(1) の公正証書は、成立に争のない甲第一号証の一・同号証の四、偽造であることにつき争のない同号証の五によると、その作成にあたつて、右野々宮軍平の偽造の印鑑証明書と右富岡町長が真正に作成した原告のそれとの二通の印鑑証明書が同時に、同公証人に提出されることにより作成されておること、この二通の印鑑証明書を対比するときには、両者の発行者である富岡町長の姓として、前者は「沢田」となつておるのに後者は「澤田」となつており、更に前者には割印がない上町長印は「紋」となつておるのに後者には右肩部分に割印がある上に町長印は「紋」となつていることが各認められるから、この公正証書の作成に関しては、前記四通の公正証書と直ちに同一に論ずることはできない。蓋し、同時に提出された同一町長発行名義の印鑑証明書に、かかる差異の存する以上、同公証人としては、これらの真偽につき一応の審理を要するのではないかという疑問が生ずるからである。

ところが、偽造の印鑑証明書であることに争のない甲第一号証の五・同第二号証の三・同第三号証の三・同第四号証の三・同第五号証の二並びに三、証人中西一二三・同堤房治の各証言によると、原告主張の(1) ないし(5) の公正証書作成の際に提出された偽造の野々宮軍平・小島正・大栃高夫の各印鑑証明書は、すべて前記富岡町長の作成名義であること、これらの発行された当時、同町の発行する印鑑証明書には、割印のあるものとないものがあり、また、町長の姓に使用されている文字には「沢田」と「澤田」との二種のものがあり、町長印に使用されている文字には「紋」と「紋」との二種のものがそれぞれあつたこと、そして同町が真正に発行する印鑑証明書には、右の如き態様のものがあることを同公証人は知悉していたことが認められるから、結局、同公証人には前記(1) の公正証書を作成するとき提出された印鑑証明書を審理するのに過失がなかつたものというべきである。

(3)  また、成立に争のない甲第六号証の一、偽造であることに争のない同号証の二によると、原告主張の(6) の公正証書作成のときに提出された湯浅善喜の印鑑証明書は、徳島県海部郡海南町長が作成名義人であり、これには割印のないことが認められるが、証人堤房治の証言によると、右印鑑証明書は同町の発行する印鑑証明書と同一の形・態様をそなえたものであつたこと、当時印鑑証明書に割印をする官公署もあれば、これをしない官公署もあつたことが認められ、他に右認定を左右する証拠はない。従つて、同公証人には、割印がないから偽造であることが明白に疑わしいとして、右印鑑証明書を更に審理する義務がなかつたものといわねばならず、これを信頼したことに過失があつたといえない。

三、代理嘱託人の権限を証するための委任状(私署証書)の真正なることの確認については、官公署の作成したる本人の印鑑証明書の提出があれば足るので(法第三二条)本件の各委任状の真正なることの確認手段として提出された右印鑑証明書が偽造であつたとしても、前認定のとおりその確認につき過失がないといえる以上、その証明の対象となつている印鑑と同一の印影を以て作成された右各委任状の真正の確認について特段の事情のない限り公証人に過失あるものといえない。

もつとも、委任状自体から印鑑の盗用(偽造)又は変造が疑われる場合(例えば不動文字を以てした登記申請用紙に、抹消登記申請事項の記入がなされた形跡ある代理委任状に押捺された捨印を利用して右委任事項を抹消して公正証書作成のための委任状に変更した場合)には印鑑証明書とは別に右委任状の真否について調査すべき職責が公証人にあるものと解するを相当とする。しかし本件においてはかような特別な事情について主張立証はないから、只右各委任状に使用されている印が印鑑証明書に使用された印と同一であるか否について審理を進める。

原告の主張する(1) ないし(5) の公正証書作成の嘱託にあたり提出された各委任状につき検討するに各偽造であることに争のない甲第一号証の六・同第二号証の四・同第三号証の四・同第四号証の四・同第五号証の四の各用紙、記載内容、使用された印影、及び証人堤房治の証言によると、右各委任状は公証役場備付の不動文字を印刷した委任状用紙を利用して作成されたものであつて、しかも右に使用された印影にはそれぞれ前認定の印鑑証明書が添附されその証明の対象となつた印鑑と右委任状の印影とは同一であることが認められるから右各委任状が偽造であるを公証人において疑わなかつたとしてもその点に過失があつたものといえない。

四、以上認定のとおり、公証人堤房治には、原告主張の(1) ないし(6) の公正証書を作成するにあたり、過失があつたということはできず、他にこれを覆して過失を認めるに足る証拠はない。

すると、原告の本訴請求は、すでにこの点において理由を欠くので、爾余の点について判断を加えるまでもなく、その請求を棄却することとし、訴訟費用につき民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 増田幸次郎 乾達彦 池田良兼)

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